内田百閒「長春香」悲しみの間に間に

内田百閒「長春香」
千葉俊二,長谷川郁夫,宗像和重 編『日本近代随筆選 2 大地の声』岩波文庫

 「間もなく九月一日の大地震と、それに続いた大火が起こり、長野の消息は解らなくなった。余燼(よじん)のまだ消えない幾日目かに、私は橋桁(はしげた)の上に板を渡したあぶなかしい厩橋を渡って、本所石原町の焼跡を探した。」(65頁)

「焼死した人人の亡骸がころころと転がっていた。」
「道の左寄りに一つ、頭を西に向けて、ころりと寝ている真黒な屍体があった。」
「暑い日が真上から、かんかん照りつけて、汗が両頬をたらたらと流れた。」(65頁)

 関東大震災の惨状の描写には、清音を重ねた四つの擬態語が用いられている。清音を重ねることによって、百閒は危うく難を逃れ、私たちはかろうじて救われる。
 以下の場面についても同様のことがいえる。

「(長野初が)以前に一度不幸な結婚をしたと云う話は、うすうす聞いていた。そういう話を長野は、さらさらとした調子で話して聞かせた。」(62頁)

百閒は危ない綱渡りをしているかのようである。