梅雨晴の間に間に_「西行と明恵 その一」

白洲正子『西行』新潮文庫

 明恵上人(みょうえしょうにん)の伝記の中に、次のような一節がある。多少わかりにくいが、現代語に訳すと光を失うので、先(ま)ず原文で読んで頂きたい。(14頁)

以下「原文」です。
明恵上人の伝記中の一節(原文)

 大体の意味は、ーー世の中のありとあらゆるものは、すべて仮の姿であるから、花を歌っても現実の花と思わず、月を詠じても実際には月と思うことなく、ただ縁にしたがい興に乗じて詠んでいるにすぎない。美しい虹(にじ)がたなびけば、虚空は一瞬にして彩(いろど)られ、太陽が輝やけば、虚空が明るくなるのと一般である。わたしもこの虚空のような心で、何物にもとらわれぬ自由な境地で、さまざまの風情(ふぜい)を彩っているといっても、あとには何の痕跡(こんせき)も残さない。それがほんとうの如来(にょらい)の姿というものだ。それ故(ゆえ)わたしは一首詠む度に、一体の仏を造る思いをし、一句案じては秘密の真言を唱える心地がしている。わたしは歌によって法を発見することが多い。もしそういう境地に至らずに、みだりに歌を勉強する時は、邪道におちいるであろう、云々(うんぬん)とあって、終りに一首の歌をあげている。
 
   山深くさこそ心のかよふとも
   すまで哀はしらんものかは

 「山深く」の詠は、新古今集雑(ぞう)の部に入っており、山深くわけ入って、どんなに想像をたくましうしようとも、実際に住んでみなくては、その哀れを知ることはできないと、歌の道の奥深さにたとえるとともに、同じような生活をしている明恵に共感をよせたのであろう。(15頁)

 だが、明恵上人の伝記のこの部分は、史家の研究によると、あとから挿入(そうにゅう)されたものだという。
(中略)
 かりに誰かが伝記の中に書き加えたとしても、その誰かはよほど西行を理解していた人物で、芸術と宗教の相似というか、それらの共通点について熟知していたに違いない。その上優れた文章家でもあった。(16頁)

明恵の遺訓の中に、このような言葉がある。
  「この数寄(すき)たる人の中に、目出度き仏法者は、昔も今も出来(いでく)る
  なり。詩頌(しじゅ)を作り、歌・連歌にたづさはることは、あながち仏法にては
  なけれども、かやうのことにも心数寄たる人が、軈(やが)て仏法にもすきて、智恵
  もあり、やさしき心使ひもけだかきなり」
 まるで西行を意識して語ったような言葉であるが、自然を愛し、自然の中に没入し切った明恵も、「数寄者」であることにおいては人後に落ちなかった。(16-17頁)

白洲正子,河合隼雄『縁は異なもの』河出書房新社
「西行と明恵」河合隼雄
  榊葉(さかきば)に心をかけん木綿(ゆふ)しでて
  思へば神も仏なりけり
 これは西行が伊勢に参ったときの歌である。白洲はこの歌に関連して、「西行が一生かかって達したのは、『歌は数寄のみなもとなり』という信念で、神様もお喜びになると信じていた。」と述べている。「思へば神も仏なりけり」で、深く深く「数寄」になっていくとき、神とか仏とかいう区別は消滅してゆくのである。(157頁)


白洲正子『西行』新潮文庫
西行の真価は、信じがたい程の精神力をもって、数寄を貫いたところにあり、時には虹のようにはかなく、風のように無常迅速な、人の世のさだめを歌ったことにあると私は思う。(294頁)


白洲正子,河合隼雄『縁は異なもの』河出書房新社
西行こそ明恵が仏道の修行によって成し得たことを歌によって成し得た人であった。(156頁)