梅雨晴の間に間に_「大野晋、橋本進吉に倣いて」

大野晋『日本語と私』河出文庫
「橋本先生の演習に出ないなら、東大の国文学科に来た意味がない」
「橋本先生は何万という万葉仮名の分析から、奈良時代の日本語には母音がアイウエオの五個ではなく、八個あったことを発見されたという。その研究は『万葉集』の一語一語の研究に影響を及ぼすという。」(129-130頁)

 大野晋は、一高の先輩である大学院生の石垣謙二に背中を押され、東京大学・国文学科・国語研究室で、橋本新吉の「国語学演習」を履修することにした。

川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫 
 (前略)木曜日の午前十時から正午までの二時間が演習の時間だった。
 橋本は角張ったいかめしい顔立ちで、武人の趣がある。最初にこういった。
 「私の演習は、毎週、宿題を出します。ですから、アルバイトで忙しいような人は他の演習を取って下さい。」(126頁)

 橋本進吉の宿題は質、量ともに並はずれたものだった。戦前の海軍の七曜表の「月月火水木金金」どころではではなく、
「 私(大野晋)は『木木木木木木木』という毎日を送っていた。
 一つ一つの言葉の意味や読み方を決めるにはどんな技術が要るのか。出来れば用例を何十と集めて、文脈に従って一つずつ意味を推定する。意味を出来るだけ細かく区分する。細かく分けた上でグループにまとめる。そのグループに共通な意味を抽出し、類似の単語との違い目を見る。意味や読み方の年代的な移り変りに気をつけて、その時期を見定める。その結果をギリギリに絞ってまとめ上げる。(橋本先生の演習で学んだ単語研究の原則は、そのまま私の中に定着し、以後の私の日本語研究の基本的方法の一つとなった。それは今も私を支配している。
(中略)
それのみならず現在の私の単語研究もまたほとんど同じ根本資料を使い、同じ姿勢で進めている。今の方が多少材料の幅は広く、組合わせ方は少し複雑になっているが)」(大野晋『日本語と私』河出文庫、134-135頁)

川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫 
 この年の三月(昭和18(1943)年)、卒業を半年後にひかえた大野は、橋本の最終講義を聴いた。
 橋本はいつもの三十三番教室で、いつものようにゆっくりと、噛んで含めるように「国語音韻史の研究」を講義した。講義を終えると、
 「国語の史的研究はまだなお研鑽すべき多くの問題が残っています。この先はどうか、若い血気盛んな人たちが力を合わせて進めていただきたいと思います」
 といって一礼すると、いつものように風呂敷を包み直し、それを左脇に抱えて教壇を降り、いつもより少し前かがみに教室を出ていった。(139頁)

大野晋『日本語と私』河出文庫
 戦局は逼迫(ひっぱく)し昭和二十年一月二十七日、東京は空襲をうけた。
(中略)
 夜に入って先生をお見舞すると「大きな音がした」と先生は弱い声でいわれ、「研究資料を君の手で田舎に保管してもらえまいか」と仰った。
 その三日後の朝、大学に行くと、橋本先生が亡(な)くなったという。浅嘉町のお宅に駆けつけた。先生は小さく痩(や)せて静かに仰臥(ぎょうが)しておられた。前夜、脚にゲートルを巻いて寝(やす)まれたままお目覚めにならなかったとのことだった。(死因は栄養失調だと思われた)
 告別式の日は雪が降って寒かった。先生の最初のお弟子岩淵(いわぶち)悦太郎氏が防空頭巾をつけたまま流れる涙と鼻水とをぬぐいもせず、はらはらと散りかかる雪の中、庭先でお棺に最初の釘(くぎ)を打った。
 その日私はプリマスロック(白黒の斑(まだ)ら模様の羽毛の鶏)のはじめて生んだ卵を先生の御霊前に供えた。ーーこれを鶏が一週間早く生んでいたら…。帰って来て『古事記』の手書きの索引のページを開くと、先生のお声が聞こえてくる。私は表紙に「不告別」と筆で書いた。一つの会話が蘇(よみがえ)って来た。私が上代特殊仮名遣の研究を卒業論文の題目にしたいと教授室に伺って申し出たとき、先生が言われた。「自分はこの特殊仮名遣の研究を一番大事にして来たものだから、ついつい仕上げが遅れてしまった。君が兵役にとられなかったら、これを手伝ってはくれまいか」。文学の面から『万葉集』を研究する一助としての語学を私は考えていた。しかし今差し向かう先生のこのお話に「私は文学をするつもりです」と言い切ることはできなかった。「ハイ」とお答えして頭を下げた。それが私の一生を決めた。その先生は亡くなってしまわれた。私はこれを仕上げなければならない。(150-151頁)

  大野晋は、橋本進吉『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫 の解説を書き、以下の文章でそれを結んでいる。

 あるとき橋本先生は日本語の文法について語られて、「日本語に美しい秩序があることを若い人たちに知らせたい」と述べられたことがある。先生の研究は精緻で厳密であり、教育は極めて厳格であった。しかし、その目指すところには言語の「美しい秩序」があった。今本書に収めた論考を見ると、先生の思考の明るさ、澄明さが強く感じられる。おそらく先生は日本語の文法だけでなく、音韻の体系についても美しい秩序を見ておられたに相違ない。心の底ではそのことを先生は人々に語ろうとされたのではなかろうか。それがこの講話の全体をささえる精神であるように私には思われるのである。(188-189頁)

以下、
です。