内田百閒「長春香」鳥の形をした一輪挿

内田百閒「長春香」
千葉俊二,長谷川郁夫,宗像和重 編『日本近代随筆選 2 大地の声』岩波文庫


 「盃を押さえ、箸(はし)を止めて暫(しば)らくぼんやりしていた。壁際に長野の机があって、その上に、今私がこの稿を草する机の上に置いている鳥の形をした一輪挿(いちりんざし)があった様な気もするし、そんな事は後から無意識のうちにつけ加えた根もない思い出の様な気もする。」(64頁)

上記の文は、
 「一度、長野の家に私を招待したいと云うので、私は日をきめて、御馳走(ごちそう)によばれる事にした」日の描写である。
 関東大震災が起こる、何年か前のことである。そして、それは、以下に続く文の伏線となっている。

 「 焼野原の中に、見当をつけて、長野の家の焼跡に起(た)った。暑い日が真上から、かんかん照りつけて、汗が両頬をたらたらと流れた。目がくらむ様な気がして、辺りがぼやけて来た時、焼けた灰の上に、瑕(きず)もつかずに突っ起っている一輪挿を見つけて、家に持ち帰って以来、もう十一年過ぎたのである。その時は花瓶の底の上薬の塗ってないところは真黒焦げで、胴を握ると、手の平が熱い程、天日に焼かれたのか、火事の灰に蒸されたのか知らないが、あつくて、小石川雑司ケ谷の家に帰っても、まだ温かかった。私は、薄暗くなりかけた自分の机の上にその花瓶をおき、温かい胴を撫でて、涙が止まらなかった。」 (65-66頁)