内田百閒「長春香」長野初の手紙

 内田百閒「長春香」
千葉俊二,長谷川郁夫,宗像和重 編『日本近代随筆選 2 大地の声』岩波文庫

 「(長野初は)勉強家で、(獨逸語の)素質もよく、私の方で意外に思う位進歩が速かった。間もなく、ハウプトマンのやシュニツレルの短篇を、字引を引いて読んで来るようになった。切りまで購読が終った後、長野は自分の身の上話をした事がある。以前に一度不幸な結婚をしたと云う話は、うすうす聞いていた。そういう話を長野は、さらさらとした調子で話して聞かせた。」

「何だかその時聞いた話は、全体がぼんやりした儘(まま)、切れ切れになって、私の記憶の中に散らかってしまった。
初めて生んだ子供が死んだ話も、私は忘れていた。ついこないだ長野の手紙が、どう云うわけだか一通だけ出て来た。その中に、「御病人のことを伺ったせいか、昨夜は死んだ子供の夢を見て、苦しい思いをしました。子供の死ぬ時の光景をくり返したのです。目が覚めてからも、まだ泣いていました。私がほんとうに母らしい気のしたのは、子供が病気になって死ぬまでの二、三日です。一睡もしないで、ただじっと小さな手から通じる脈の音をきいていたあの時ほど、真剣になったことはありませんでした。私はこの世を去り際の子供の顔を忘れる事が出来ません。いえそれより他は思い出せないのです。今日は夢の後味にたたられて、一日感傷的な気分を離れることが出来ません。学校でも大塚先生のヴェルレエヌの話で、あやうく涙を落とすところでした」とあるのを読んで、そう云えば、小さな骨壷を持ち歩く話を聞かされた事があったと思った。」(61-63頁)