内田百閒「長春香」歯並みだけが白く美しく残っていた真黒な屍体

内田百閒「長春香」
千葉俊二,長谷川郁夫,宗像和重 編『日本近代随筆選 2 大地の声』岩波文庫

「間もなく九月一日の大地震と、それに続いた大火が起こり、長野の消息は解らなくなった。余燼(よじん)のまだ消えない幾日目かに、私は橋桁(はしげた)の上に板を渡したあぶなかしい厩橋を渡って、本所石原町の焼跡を探した。川沿いの道一面に、真黒焦げの亜鉛板が散らばり、その間に、焼死した人人の亡骸がころころと転がっていた。道の左寄りに一つ、頭を西に向けて、ころりと寝ている真黒な屍体があった。子供よりは大きく、大人にしては小柄であった。目をおおって通り過ぎた後で、何だか長野ではないかと思われ出した。歯並みだけが白く美しく残っていたのが、いつまでも目の底から消えなかった。長野は稍(やや)小柄の、色の白い、目の澄んだ美人であったから、そんな事を思ったのかもしれない。」
(65頁)
百閒の知に傾くことなく、情に流されることない筆さばきはみごとである。