「今年のはじめての雑誌です。芸術新潮『白洲正子 愛の明恵上人』です」


芸術新潮 1996年11月号 『白洲正子 愛の明恵上人』
鎌倉時代が生んだ高僧達は、そういう荒野の中から咲き出でた花でしたが、明恵はその誰にも似ていない。道元や親鸞のように宗派もつくらず、一遍や空也のような聖(ひじり)の生活にも徹せず、重源(ちょうげん)のような事業家でも、文覚・日蓮のような荒行者でもなく、歌をよんでも西行には遠く及ばなかった。彼がほんとうに打込んだのは何であったか、次の詞はその心の内を明かしてくれるように思います。
『ワレハ天竺ナドニ生マシカバ、何事モセザラマシ。只五竺処々ノ御遺跡巡礼
シテ、心ハユカシテハ、如来ヲミタテマツル心地シテ、学問行モヨモセジトオボユ』(却廃忘記)
 古今に名僧は多くても、自分の信仰について、誰もこのような告白をした人はいない。極端なことをいえば、明恵が信じたのは、仏教ではなく、釈迦という美しい一人の人間だったといえましょう。この詞には、キリストの足に油を塗るだけで、何もしなかったマグダラのマリアを想わせるものがありますが、末世に生れた悲しさは、自分の力で、「一体の仏像を造る思い」に堪えねばならなかった。西行が歌の上に表現したことを、明恵は日々の生活の上で行なったといっていいのですが、「修行」という言葉は、彼の場合、そういう意味を持つので、それは経文に通じることでも、仏教の思想を研究することでもなかったのです。
(中略)明恵が逃れたのは、俗世間だけでなく、仏教からも、宗派からも、「出家」しようとした。そこに彼の独創性はあると私は思っています。(24頁)

 それから二、三年、彼の病気は一進一退で、歓喜三年(一二三一・五九歳)、紀州施無畏寺の落慶供養から帰った後、「不食の病」に倒れ、今度はほんとうに死を覚悟せざるは得なかった。といっても、死は幼少の頃から身近なものであったので、そのために生活が変るということはありませんでした。遺言もしなければ、辞世の句も残さない。生死というものについて、明恵は人とは少し違う考え方をしていたのです。たとえば、
『近来の人は、何としたるらん。尋常なる定(じょう)、生死を出づると云ふ
ばかりを以て、仏教と知りたり。…法滅といふは、仏法の欠失するを法滅と云ふ
にあらず。是体の事の興ずるを、法滅と云ふなり』(伝記)
また、別れを惜しむ人々に向っては、常にこういったということです。
『我ガ死ナムズルコトハ、今日ヲ明日ニツグニコトナラズ』(行状記)
 何も大げさにいう必要はない、死は人間にとって、「尋常なる定」であるから、今日が明日につながって行くようなものにすぎないと。だが、この詞には、別の含みもあるようで、なるほど自分の命はいうに足りないが、仏教の教えは「今日ヲ明日ニツグ」ように、永遠につづいて行くに違いないと。そう信じていた明恵には、死病もさして苦にならなかったようです。(65頁)

 その「吉夢」の中では、彼自身が善財童子となり、華厳五十五カ所を巡礼し、菩薩が大勢いるのに出会って、『来世ノコト』など聞きたいと思ったが、今さら後生はどうなりますかと、尋ねるのも愚かな気がして、夢がさめている。その他、仏像を呑みこんだり、菩薩に病気を介抱されたり、『夜々ニカクノ如ク吉夢ウチツゞキテ』一時は病も快方に向ったのですが、その年の秋頃から再び悪化し、ある晩、このような夢を見ました。
 大海のほとりに、大盤石が盛上ったようにそびえ、その上に美しい木が繁り、花や果物が一杯に咲き匂っている。大神通力をもって、大海もろともこの山をひきぬき、自分の傍らに置いたと見るや目がさめた。そこで彼は思う、『此夢ハ死夢ト覚ユ。来世ノ果報ヲ現世ニツグナリ』と。(行状記)
 それから後は、静かに死期を待つばかりでした。そうして貞永元年一月十九日(一二三二・六十歳)大往生をとげたのですが、明恵という人間は、死後における同行達の奉仕の中に、もっともよく現われているように思います。二日後の二十一日、埋葬を終ると、弟子達は禅堂院の壁に、明恵上人の肖像画をかけた。これは「樹上座禅像」とは別な絵で、俗に「念珠像」と呼ばれるものですが、
(中略)
 回向や読経はさておき、生けるが如く明恵に仕えたということ、それは生身の仏に身を捧げた上人、学問より「愛心」を重んじた上人の、生前の姿をよく伝えています。彼らは師を失った悲しみにより、いっそう師に近づいたといえましょう。『我ガ死ナムズルコトハ、今日ヲ明日ニツグニコトナラズ』明恵の仏教をついだ人はいなかったかもしれないが、明恵という一つの精神は、数は少なくともそれを伝えた人々によって、私達日本人の中に、「今日ヲ明日ニツグ」が如く生きつづけるでしょう。私はそう信じております。(66頁)