白洲正子「西行と私」

「西行と私」
白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』新潮社
 西行の名前を私が知ったのは、まだ物心もつかぬうちであった。神奈川県の大磯に、「鴫立沢」の旧跡がある。

  心なき身にもあはれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮
 
 の歌によったもので、海岸の松林の中に、かやぶき屋根の「西行庵」が建っており、門前に小さな沢が流れている。
 その隣に私の祖父の隠居所があったので、小学校へ入る以前から、週末には必ず訪ねるしきたりになっていた。もちろん西行が誰だか知らなかったし、昔の坊さんなどにまったく興味はなかったが、沢で蟹をとったり、松林の中で遊ぶことはたのしかった。
 そうしている間に自然に「鴫たつ沢」の歌も覚えたが、鴫立沢は固有名詞ではなく、好事家たちがつくりあげた歌枕にすぎないことを知ったのはよほど後のことである。要するにそれは鴫の立つ沢なのであって、特定の地名に限定しない方が西行の歌にはふさわしい。とはいうものの西行の名をはじめて知り、歌に出合ったのもそこであったことを思うと、私にとってはやはりなつかしい地名なのである。
 そういうふうにして、雨が土にしみこむように、いつしか西行は私の心の中に住みついてしまった。折にふれ、歌集も読んでみた。ここに一々あげることはできないが、出家はしても仏道に打ちこむわけではなく、稀代の数奇者であっても、浮気者ではない。強いかと思えば女のように涙もろく、孤独を愛しながら人恋しい思いに堪えかねているといったふうで、まったく矛盾だらけでつかみ所がないのである。
 人間は多かれ少なかれ誰でもそういうパラドックスをしょいこんでいるものだが、大抵は苦しまぎれにいいかげんな所で妥協してしまう。だが、西行は一生そこから目を放たず、正直に、力強く、持って生まれた不徹底な人生を生きぬき、その苦しみを歌に詠んではばからなかった。

  心から心にものを思はせて 身を苦しむるわが身なりけり
  世の中を捨てて捨て得ぬ心地して 都離れぬわが身なりけり

 新古今の歌人たちが金科玉条とした幽玄も余情もあったものではない。のちに藤原俊成は、前述の「鴫たつ沢」の歌について、「心幽玄に姿及びがたし」と評したが、それは結果にすぎないのであって、己が心を持てあましていた西行に「鴫立つ沢の秋の夕暮」の風景は、身につまされて悲しく、哀れなものに見えたに違いない。
 幼い頃蟹を獲って遊んでいた私の鴫立沢は、西行の歌を縦糸にして、長い間に人生の種々相を織りなして行くようであった。ただ西行のような達人でなかったために、ふらつきながら不徹底な生き方をしていたにすぎないが、不徹底であることにおいて妥協はしなかった。八十近くになっても、まだ私は「心から心にものを思はせて」いるのである。でなかったら、下手な文章なんか書きはしない。断っておくが、私は西行の真似がしたかったのではない。真似ることのできない人物であることは最初からわかっていたが、自由に生きるということがどんなにつらいことか、その孤独な魂には共感されるものがあった。
『西行』の本を書く気になったのは、そういう共感が訴えたかったわけではない。西行に関する研究や評論は数えきれないほど出ているが、私の知るかぎりでは、その中途半端な生涯を書いたものは一つもない。近頃はやりの言葉でいえば、みなどこかにはっきりしたアイデンティティーを設定しており、どこにも属さず、何物にもとらわれず、ただ存在するだけで、事足りていた西行の本質にふれてはいない。人生の支えとなった和歌でさえ、花や月に心が動く時に、わずかに三十一字をつらねているだけで、「まったく奥旨を知らず。」俊成や定家のような専門歌人ではない、と言い切っているのである。
「西行と私」の関係といえば、風の吹くままに生きているような、そういう人間像を描いてみたかっただけだ。大それた試みであったことは認めるが、失敗したかしないかは読者が決めることで、私の知ったことではない。
(51-54頁)

以下、
「白洲正子『西行』新潮文庫_まとめて」
「小林秀雄『西行』_この空前の内省家」
です。