洲之内徹「セザンヌの塗り残し」

「セザンヌの塗り残し」
洲之内徹『セザンヌの塗り残し 気まぐれ美術館』新潮社

 高松から帰って二、三日後に、私はクラさんに会い、はじめにビヤホールでビールを、次にコーヒー屋でコーヒーを飲んだ。クラさんを紹介すると長くなるから、いまは、ここ数年安井賞展に続けて出品している若手の画家ということだけにしておこう。そのクラさんが、コーヒー屋を出てから有楽町の駅まで歩く途中で、私にこう言った。
「この前の、セザンヌの塗り残しの話、面白かったですね」
「僕が言ったの? 何を言ったっけ」
 いつも口から出まかせに思い付きを喋っては忘れてしまう私は、すぐには思い出せなかったが、言われて思い出した。セザンヌの画面の塗り残しは、あれはいろいろと理窟をつけてむつかしく考えられているけれども、ほんとうは、セザンヌが、そこをどうしたらいいかわからなくて、塗らないままで残しておいたのではないか、というようなことを言ったような気がする。
 そして、言ったとすれば、こういうふうに言ったはずだ。つまり、セザンヌが凡庸な画家だったら、いい加減に辻褄を合わせて、苦もなくそこを塗り潰してしまったろう。凡庸な絵かきというものは、批評家も同じだが、辻褄を合わせることだけに気を取られていて、辻褄を合わせようとして嘘をつく。それをしなかった、というよりもできなかったということことが、セザンヌの非凡の最小限の証明なんだ。
 というふうに言ったと思うのは、実は、この頃私は、しきりに、辻褄を合わせようとする嘘ということを考えるからである。嘘というもののこの性格は、日常生活でも芸術の世界でも同じだが、芸術では致命的なのではあるまいか。これも私の、十分に時間をかけて考えてみなければならないことの一つだ。しかし、クラさんに言われて思い出すようでは心細い。
 私はまた、この頃、眼の修練ということを考えている。絵から何かを感じるということと、絵が見えるということとは違う。これまた、これだけでは到底わかってもらえそうもないが、私が身にしみて感じる実感なのだ。先刻の田中の芩ちゃんが、いつか私の画廊で、冗談ではあったが、私を指して傍の人に「こいつは絵がわからないから」と言ったとき、私はつい肚を立てるのを忘れて、ほんとうにそうだなと思った。
 絵から何かを感じるのに別に修練は要らないが、絵を見るには修練が要る。眼を鍛えなければならないのだ。この頃になってやっと、私はそれに気が付いた。では、眼を鍛えるとはどうすることか。私の場合、それは、眼を頭から切り離すことだと思う。批評家に借りた眼鏡を捨てて、だいぶ乱視が進んでいるとはいえ、思い切って自分の裸の眼を使うこと。考えずに見ることに徹すること。まずそこからはじめるのだ。(69-70頁)